秋元康のNGT48暴行事件における責任は、私の中でもまだ結論はでていない。
今回のブログは、事件本体に対する彼の姿勢ではなく
詩人・作詞家:秋元康
から感じる憂鬱を、少しだけ書こうと思う。
私は残念ながら文学的素養が全く無い。
病院入院中に古今和歌集を読むなど気取ってはみるものの、元々小説読解は苦手であったし、詩は読むのも書くのも下手だ。
だが…
NGT48暴行事件より後に発表されたこれらの歌詞、
全て
カップリングの方が丁寧に作られている
どうしてもそう思えてならない。
それは私に感性が乏しいからなのだろうか。
総じて、NGT48暴行事件後のNGT48の歌詞には
メインの楽曲の方は「秋元康の投げやり」を感じ
カップリングの方には「秋元康が本当に書きたい理想」を感じる。
ここで断っておくが、それぞれでセンターを務めた
藤崎未夢さんや小越春花さん
を批判したりdisる意図は、本稿には全く無い事を明記しておく。
お二人とも立派に務めを果たした。
あくまで詩・作詞家に対する感想である。
また、「ポンコツな君が好きだ」のMVのドラマは出来の良い動画であった。
シャーベットピンクにも結構「テキトーさ」を感じたが
特にAwesomeの「忘れて踊ろう」という「投げやりメッセージ」には当時かなり私は驚いた。
>あれから何してこうしてました そんなことどうだっていいよね
>あいつもこいつもHappyで
>ルール無用
事件とは関係無い論評は意図して薄くしていたのでツイッターではあまり書かなかったが、私は
「…秋元康先生。こんな開き直り歌詞をアイドルに歌わせてしまっていいんですか」
という感想を禁じ得なかった。
Awesome「忘れて踊ろう」とタイアップした「にいがた総おどり」のアカウントから、私がブロックされたのは、ある意味順当でもあった。
事件も含めてすべて忘れて踊りたいのに、
事件追及しつつ一部メンバーを応援する私など、
存在すら見たくもなかっただろう。
このような公式アカウントからの拒絶を受けたのは、この時期が今の所最初で最後である。
「ポンコツな君が好きだ」にしても、「秋元先生?」と思った。
確かに男というものは、ミスをした相手が可愛い若い女性であると、男に対するよりもかなり大目に見るという悪癖を有することが多い。
そうした傾向が私にも無いかと言えば、残念ながらゼロとは言えない。
…だが「ポンコツな君が好きだ」においては…
どう考えても「かわいいから許せる」というレベルのミスを超えている。
>スキー部の合宿 来たけれど
>一週間先の予約だった
>マネージャーの君が
>日にち間違えてた
>絶対にありえないミス
>ごめんなさいって
>必死に謝まる姿に
>僕はキュンとしてしまって
>怒れないのはなぜだろう?
>仕方なく帰って 気がついた
>みんなの荷物はどこへ行った?
>忘れて来ちゃったのに
>どうせまた行くからって
>屈託のないその笑顔
これは、それでも許せるほどの可愛いマネージャーと、それを許すフニャフニャ男が存在しなければ成立しない歌詞である。
ここで歌われているのは「ちょっとしたドジを年に一回」ではない。
かなりすさまじいミスを間隔をおかずに繰り返す女性と、それにキュンとしている男どもである。
…秋元康先生。先生がNGT48にこれを歌わせるのは、何ですか。
何と比定、何を想起させようとしているのです。
あからさますぎやしませんか。
これは先生の精一杯の現運営に対する指摘・皮肉ですか、あるいは開き直りですか。
それとも両方ですか。
秋元康は、詩人として、NGT48の顔となる選抜メンバーの歌には、これしか歌詞を書けなかったのかもしれないし、
詩人として、現実を詠ったらこうなったのだ、というのかもしれない。
だとしたら秋元康は、作詞家として「できること」はしているのかもしれない。
現実を写し取る藝術作品という形をなしているのかもしれない。
文学的素養の無い私からは、売れる歌詞を記録的に量産できる詩人としての能力には、秋元康先生に対し、尊敬を払う。
作家としての才能も並外れたものがあるのだろう。
アイドルの卵を選び出す眼力の確かさもある。
だが一つだけ思う。
「総合プロデューサー」の肩書きは、外されてはいかがですか、と。
どう考えても今の
「詩の形で現実を写し取って後世に残す」
ことが精一杯の秋元康氏の姿は、「プロデューサー」という言葉の語感には相応しくない。
「作詞家」か、もしくは「ゼネラルクリエイター」「クリエイティブアーティスト」といった肩書きに変更するべきではないか。
「プロデューサー」という肩書きからは、少なくとも外部から、
「吉成夏子や、渡辺洋行に、経営上の実権があり、秋元康にできるのは詩人としての藝術活動だけである」
とは想像できない。
文学的素養の無い私ですら、
「皮肉」もしくは「開き直り」
を感じたが…
ファン一人一人に本当の感想を聞いてみたいところである。
思うのは、
秋元康はペンをとった時、
「何を詠わせればいいんだ」
と課題をインプットされた時、
アウトプットできたのが、メインのあの3曲だったのだろうと思う。
それが投げやりだったのか、
皮肉を込めた批判だったのか、
「これしか書けないよ」という「最適解」だったのか
いずれにせよ私はあの詩を見た時…
「秋元康の、詩人としての本音と憂鬱」を感じた。
最後に一つ言いたい。
こういう歌詞を「皮肉」「現実」の模写として書くなら、次に書くべきは
ブラック部活におけるブラック顧問の存在
であろう。ポンコツな部員、ではなく。